見るということ。うろこ。
目から鱗という言葉がある。
なにか自分が見えていなかったこと、新しい気づきに出会った時などに使う言葉だ。
しかし、この目から鱗という言葉、意味はわかるが、よく字を見た時になぜ目から鱗が落ちるのだと考えたことはあるだろうか。魚の鱗?爬虫類のうろこ?でもなぜ目から?
これにはしっかり由来があるらしい。
しかし、生まれは日本ではない。
この眼から鱗という言葉は聖書の話に由来するのだという___
サウロという熱心なユダヤ教徒がいた、彼はあまりに信仰があつすぎるために、キリスト教徒たちを迫害するようになる。これは神の望みである、自分の行いは正義であり正しいことであると、自分で思い込み、彼はたくさんのキリスト教徒たちを迫害することを厭わなかった。
そんなある日、彼はイエスキリストの声を聞く、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」。
その声を聞いたサウロは目がウロコに覆われ見えなくなってしまう。
目が見えるようになりたい、元に戻してほしい、なんとかしてウロコを剥がしたいともがくサウロだったがびくともしない。
三日三晩、食べ物も喉を通らないような日が続いた。
そんな中サウロは考える。今私はウロコのせいで何も見えていない。いや、何も見えていなかったのはウロコに覆われる前からだったのではないか?
元から私は何も見えていなかったのではないか?
そう自分の存在を悟った時、目から鱗がポロポロと落ちていった。
その後また目が見えるようになったサウロは回心しキリスト教徒になり、後の使徒パウロになった。
眼から鱗という言葉はこの「パウロの回心」の話が日本で派生してできた言葉なのだという。
自分は何かを見るとき、目の前の相手のこと、自分のこと、本当に見ることができているだろうか?自己中心的になってしまっていないだろうか?、相手を思いやる気持ち、尊重する気持ちを忘れていないだろうか?
自分は普段から何かを見れてるつもりでも、実は何も見れていなかったと気づく瞬間に何度も出会う。その自分の今の存在に気づいた時、誰かの言葉にそれを悟った時、目から鱗が落ち、
真に物事を見れるようになるのだろう。
渡邊