一年を振り返る①
今日は自分が卒業した大学の卒業式だ。めちゃくちゃ天気がいい。
正直ここ最近、就職活動と大学院の研究に忙殺されていてそのほかのことを考える暇があまりなかった。
部屋の窓を全部開けて太陽の光を浴びながら作業してる。
普段は誰かしらが家にいる家だけど誰もおらず(後述する)、自省するにはぴったりかなと思い、ここ1年の自分と価値観の変化について振り返ることにした。
去年の今日、大学を卒業した。大学の規模が大きすぎて学部毎に日にちと時間帯を分けて卒業式が行われる。卒業式では同級生はもちろん、後輩先輩先生と挨拶した。
思えばなんとはなしに漠然とした目標で大学に入学した。(というかたくさんの同級生と話すけど、明確な理由を持って大学と学部を選択する人は本当に少数だと思う)
そんな中で、これがやりたい!勉強したい!とか、人とは違うことをしたい!という価値観は確実に大学以降で醸成されたものだし、その醸成に付き合ってくれた人やモノには感謝が絶えない。
前置きは長くなったけど、みんなが卒業するのを見送る中で自分が大学院に進学し、マイノリティになることに対して寂しさを少々と、逆に自分に対する誇らしさを感じていた。
学部3年生の終わりころにちょっとしたきっかけがあって3人で起業を試みていた。
僕たちは「ITってかっこいいよな!俺たちもこんなスゲーもんつくりたい!」という無邪気な気持ちでスタートした。そしてみんなが卒業しても自分たちの挑戦は続けようと思っていたし、3人とも卒業しても就職はしないと決めていた。
大学院に進んでからは授業がある時は授業に行き、ないコマは家に帰ってきて開発に勤しむという生活をしていた。大学と家がめちゃくちゃ近かったのでできた技でもある。
ただ、6月にチームが解散したことでその挑戦は終了した。
よくある喧嘩とか脱走とかではなく、合意の上での解散である。僕も含め、チームでの個人的な事情があるので理由は割愛するが、解散を経て自分としては教訓にしたいと思ったことがいくつかあるので、それについては下記に。
休みは取った方がいい
いきなり当たり前のことを書いたが、進行形の時はそんなこと考えていなかった。もしかしたら自分の中であくせくと働くことを無意識化で美徳と考えていたかもしれない。
だけど休みを取ることにはいくつかのメリットがある。
1、カラダとアタマとココロの休養
言わずもがな。1年半毎日10~18時で活動していた。何か用事がある時は休みを取っていたが、基本的にこの勤務(?)時間。3つの栄養補給が必要だったかも
2、ネットワーキング
基本ずっと家にいたので外の人と意図的に繋がることがなかった。それもいいことだが、人との出会いや会話の中で新しいものが生まれるのはよくあることかもしれない。
3、知の多様化
2と被るけど、新しいものと触れる機会が極端に少なかった。特に1次情報。前のブログでも書いたけど、結局新しいものを生み出したいなら積極的に未知のものに触れる必要がある。
怖いのが近視眼的になっていたので、このことを考えなかったということ。今後同じ場面になった時は、必ずしもこうするわけではないけど、検討すると思う。
正解はない
プロダクトとかサービスとかなんでもいいんだけど、新しいものを作る時には「正しい/正しくない」の基準を設けてはいけないんだなと。僕らは最初から「奇抜なアイデア」を探していた。その時に「もうすでに似たようなサービスが存在する」とか「面白そうだけど、よくわからないな…」ってな感じで、正解になるような素晴らしいアイデアが見つかると思っていた。
あくまで不確実なものに取り組んでいるのだから、スタンスとしては「正しくないかもしれないけど、正しいものにする」って感じだし、同時に仮説検証のプロセスも忘れてはいけない。
ビジョンとかがすごく大事
これ、本当に大事。もともと明確なアイデアがあるといって集まったわけではなく、どちらかというと「起業したい」という3人が集まったのに近い。なので性格や価値観もすごくバラバラ、興味がある分野もバラバラだった。
その結果、サービスづくりで起こった弊害は「機能の実装やマネタイズなどを決定する際、各々の主観的好みや経済合理性が軸になってしまう」ということだった。
3人で達成したい世界観とかが統一されていなかったために、一つの機能やアプローチ一つ決めるのに1日とか2日とか普通にかかった。
経営系の授業取っていれば「ビジョンが大事」って絶対聞くけど、机上の空論ではなく今は本当にそう思っている。
逆にビジョンが決まっていれば、円滑なコミュニケーションが達成できるのもわかった。先人の言葉は、経験を通して初めて自分のものになる。
他にも色々なことを学んだけど、あと五万文字くらい使いそうなので、ここら辺にしておく。
起業の挑戦が終わってからは、大学院の授業や課題に集中することにした。
ちなみに僕の所属する学科は、なんと外国人比率が90%を超える。そしてそのほとんどが中国からの留学生だ。
それには理由がある。まず文系で大学院に進学する人が極端に少ないこと。加えて、中国内で、うちの大学のプレゼンスが極端に高いこと。なのでこの逆転現象がおこっている。
僕にとっては中国に留学に来ている気分である。もちろん価値観が全く違うことに驚いた。だけど、それも全部自分にとってのプラスである。
正直にいうと、中国のことやそこの人の価値観とかはメディアを通してでしか知らなかった。ただ、メディアというのは、往往にして極端な主張が多い。なので実は話をすると、「全然イメージと違うやん!」ということはたくさんあった。
また正直にいうが、日本ではあまり中国のことをいいイメージで表現しない。それは政治的な何かがあるかもしれないけど、個人ではどうすることもできない。しかし面白いのが、中国でも日本が悪いイメージで語られているということだった。
「食品偽装」とか「観光客のマナー違反」とかが放映されているらしい。日本と同じじゃんって僕は思った。多分神戸鉄鋼の件とか東芝のこととか、ここぞとばかり言われているんだろうなとも思う。
それを通して、中国人が悪いというのは作られた偏見であること、また、結局仲悪い国同士は同じことしてるってこと、あとは特に敏感になっているのは中高年の人だなってことを学んだ。
とにかく、環境が違うところにいる人と一緒にいると、いかに自分が偏見の塊かということに気づかされる。
この後、夏休みに突入するけど、そこでまたたくさんの人と出会うのだった…。
おぐら
人生ハードモード
先日、勤めていた会社をやめた。
勤めていたと言ってもエンジニアの社会人インターンのようなものなのだが、それでもそのままその会社に勤め続け、エンジニアとして成長していけば、後々は正社員雇用も考えてくれると言ってくれた優良企業さんではあった。
しかし、辞めた。
理由は様々だが、一番はその会社で自分を成長させることがこの先難しいと判断したからである。
さてそうも決まれば、いきなりニート。
人生ハードモードの突入である。
この言葉はうちの川村が言ってくれたのだが、妙にしっくりきてお気に入りだ。
一応、辞めたからといってエンジニアリングから離れるというわけではない。
何よりスミレを完成させ、運営していくという使命もあるし、個人的にエンジニアリングはこの先もっと成長させたい能力である。
そして、それとは別に、私の父がオーナーを務めるカフェが経営が厳しいのでそれを手伝い、お客を増やすという役目をもらっている。今後何年かはその二軸で生きていくことになるだろう。
しかし、生きていけるのはその2つが生活費を稼げるほどうまく回ればの話である。
今現在、それらはお金を生まない。
今後失敗したとしたら、ただのアルバイトだけやって食いつながないといけない。
そこに成長という言葉は発生しない。
それはそのまま自分の存在価値の死を意味する。会社を辞めた今、自分にとってそれは命がけの闘いだ。
それがめちゃくちゃに怖い。
足がガクガクする。
この先の自分のすべての行動がそのまま自分の運命を左右する決断となるからだ。
正直、今このブログを書いているのも、自分の今の状況を受け止め、ちゃんと両の足で立つためだ。
会社を辞めたのは自分の信念のもとの決断ではあったし、辞めたことに後悔もしていない、その先の目指すべき自分を常にイメージしながら生きていく。しかしこの決断の先に、何が待ってるのか皆目検討もつかない。あとにも引けない。
こわい、こわい、こわい____。
しかしそんな状況の中で、
自分の内側に、この状況を面白いと思っている自分がいることに気づく。
小さな光だが、そいつはこちらを見ながらニヤリと不敵な笑みを浮かべているのだ。
そしてそいつが私に言う。
「何でもいい、面白いと思うことをやれ。」
それは小さな火だ。
自分が今まで信念として貫いてきた言葉である。
「牙を剥き出し、全身を震わせ、唸れ。」
世の中の当たり前、常識、普通、無意味、無謀
周りの言う、そういった言葉を正面からぶん殴ろう。
「情熱の火をたぎらせろ。」
いま自分は自由になった。恐ろしくも。
先ずテーブルに、生きていくために必要と思われる自分ができることを並べてみよう。
そしてその手札から、自分が全身を使って情熱を注げるものだけを残し、あとは破り捨てよう。
「感謝しろ」
そんな無理をする必要がどこにあるの?
と心配してくれながらもちゃんと私がやることを見続けてくれる愛すべき人がいる。
本当に精神的に支えてもらっている。
こんな自分のことを気にしてくれる、見てくれる人たち、支えてくれる物、ダイレクトに生命を繋いでくれる食べ物、そしてこの運命、それら全部に全身で感謝しよう。
人間独りでは絶対に生きてはいけないのだ。
よし、エンジンがかかってきた。
やってやろう。
我が人生。望むところだ。
一番好きな映画がある。
その中に登場する、詩を引用して、この記事の最後とする。
「穏やかな夜に身を委ねてはならない、
老齢は日暮れに 燃えさかり荒れ狂うべきだ
死に絶えゆく光に向かって 憤怒せよ 憤怒せよ__」
【なんぞ】お店の会員権の売り買いができるサービス「SPOTSALE」に登録した
どうもこんにちは。後先考えない行動に定評がある川村です。
なんか出ましたね。SPOTSALE(スポットセール)。
スポットセールはお店の「会員権」の取引所です
どのお店でも会員権を発行でき会員は優待を受けることが出来ます。会員権は売買も可能です。
さっそく具体的に見ていきましょう。
①まずは登録
登録はFacebookログインのみ。ウェブアプリなので、app storeに行ってダウンロードの手間はありません。ウェブアプリを知らない人はググれ。わたしはsumireをやるまで知りませんでした!
ねえねえ、ところでsumireって知ってる? ”行きたいとこリスト”を作って友達とシェアできるサービスなんだよまあ我らが今がんばって作ってるところなんですけど。sumireもFacobookログインで使えるウェブアプリです! もうちょっとで皆様にお披露目できるので、まじでよろしくお願いします。宣伝でした。
②公募受付中のお店をチェック
SPOTSALEにログインすると、一覧でお店を見ることができます。
いちごおいしそー。
③お店の詳細をチェック
お店をクリックすると、そのお店の会員権を持っていることで得られる特典を見ることができます。会員権は売ることもできるらしいよ。
https://spotsale.jp/guide-user.html
④気付く
わたしこのシステム知ってる! 株だ!!(持ってないけど)
つまりそういうことです。お店はSPOTSALE(=取引所)上で会員権(=株)を公開して、我らユーザーがそれを買う。買った会員権は、持っていると特典(=株主優待)が受けられるし、SPOTSALE上の市場価格プラマイ30%で売ることもできますよー、と。
2018年3月15日現在の状況は、10店舗が公募中、60店舗が審査中とありました。九州のお店が多めなのは、SPOTSALE開発元の「イジゲン」が大分発のスタートアップだからなんですね。イジゲンさん、2018年1月に6200万円の資金調達してた。
店舗が資金やファンを獲得できる“会員権”の取引所「SPOTSALE」、開発元のイジゲンが6200万円を調達 | TechCrunch Japan
懸念
法とかそういうことはさておき、もう、これに尽きるでしょう。会員権を買ったお店がいきなり閉店したらどうするの?
SPOTSALEのお店向けQ&Aには、下記のように書いてありました。
下記の条件で退会が可能です。
1. 公募開始から6ヶ月が経過した日以降
2. 3ヶ月前に変更内容をアプリから登録し、ユーザーに告知する(告知はアプリが自動的に行います。)
ただ、やっぱりそうもいかないのが現実。自分のお店が閉店に追い込まれることを前提に開業する人なんて、誰もいない。閉店するときはあっという間だし、その修羅場の中でお店がSPOTSALEの会員権のことにまで気が回るとは考えにくい。つまり「3ヶ月後に閉店します」なんて無理。
このあたりのSPOTSALE側の対応について、利用規約も読んでみましょう。
第3条 サービスの概要
2. 会員契約又は会員権の譲渡に係る契約に基づく権利の行使又は義務の履行は、上場店舗、会員権購入希望ユーザー、及び会員が自己の責任と費用の負担において行うものとし、当社は、一切関与せず、一切の責任を負いません。
第18条 上場廃止
4. 上場廃止店舗の発行した会員権は、当社が、当該上場廃止店舗が会員の募集を行う際に設定した優待の対価の額、又は上場廃止時の会員間における当該店舗の会員権の最終譲渡価格のいずれか低い金額にて買い取ります。
つまり「会員特典が受けられない系のトラブルについては関与しないけど、もしいきなり閉店しちゃったときは、手元に残った会員権はSPOTSALEが買い取ります」って理解でOK? かなり良心的じゃないですか?
VALUの発行者が本サービスから退会したり、当社からサービスの利用を制限されたりした場合、その発行者のVALUの価値は完全になくなってしまう場合もあります。
とりあえず、登録だけでもしてみては
リリースキャンペーンとして、新規登録で500円相当のSPT(SPOTSALE内で使える通貨)がもらえます。さらに、公募に申し込みと300円分のSPTがキャッシュバック。キャンペーンは4月30日までだそうです。まあ、わたしの感想だけでもアレなんで、詳しくはちゃんとした記事でも読んでみてください。
ちゃんとした記事↓
ファンと資金を同時に獲得、お店の“会員権”取引所「SPOTSALE」が正式リリース | TechCrunch Japan
以上、これからお店が増えていくことに期待しつつ、SPOTSALEの紹介を締めくくります。がんばれスポセ! (たぶんスポセとは略さない)
※株を例に用いたのは川村個人の感想です。SPOTSALE公式では株式に例えた表現はされていません。また、サービスの説明は正確性を保証するものではありません。当記事は、SPOTSALEならびにイジゲンさんとは何ら関係はありません。ので、登録に際して何かあっても責任は負えないんだからねっ///
かわむら
イノベーションのジレンマ
イノベーションのジレンマという現象がある。
書籍にもなっているので興味を持ったら是非そちらをご覧いただきたい。
イノベーションのジレンマとは、業界トップ企業が顧客の意見に耳を傾け、さらに高品質の製品やサービスを提供することでイノベーションに遅れ、失敗を招くという考え方のことである。
日本企業の多くはガラパゴスケータイと言われるように日本独自のケータイ文化を作って来た。寡占産業であり、大手のメーカー・キャリアがそれぞれ日本に多くの顧客を持っていた。
アンテナが付いている画面むき出しのケータイから始まり、折りたたみケータイ、ワンセグ機能、顧客の要望を答えるように次々と機能を拡充させていった。
企業が考えていたことは「今の顧客の満足度をあげるにはどうしたらいいか」「既存顧客を他のキャリアに取られないようにするには(または奪うためには)どのように性能を向上させたらいいか」であろう。
しかし日本企業が既存顧客を逃さないように注力しているうちに、iPhoneをはじめとするスマホ勢が現れた。日本メディアの多くは当時、スマホが流行ることに懐疑的だった。しかし現在スマホは我々の生活を握っている。どうして日本企業はこの変化に対応できなかったのか?これに答えるのがイノベーションのジレンマである。
イノベーションのジレンマに陥る原因としてChristensenは3点述べている。
まず第一に破壊的イノベーションの技術は、(特に初期に)性能が低いため大企業が関心を払わずその変化に気付きにくいからである。
おそらく初期のスマホは性能がそこまで高くなかった。赤外線が使えない?!そんなん日本じゃ流行らないよ笑 というのは多くの人が言っていた。
第二に、最先端の市場技術をうまく使いこなさずに既存顧客の満足度をあげることに終始してしまうからである。技術を駆使して新しい商品・サービスを作ったとしても、それによって確実に新規顧客に刺さるかどうかは分からない。であるなら、現在確実にお金を落としてくれている顧客の満足度をあげることに注力したほうがいい。
第三に、投資に値するほどの市場規模でないため参入するタイミングを逃すからである。新規市場は新規であるがゆえに市場規模がゼロもしくはかなり小さい。不確実な市場に投資するよりも、上記のような既存の大きな市場を伸ばすほうが社内の支持も得られやすい。
そうしてモタモタしているうちに、新規の商品・サービスが顧客の新規ニーズ・シーズ(ウォンツ)に答えることで既存市場を破壊する。
よく言われるベンチャー・スタートアップのセオリーは、
・大企業の参入しないような規模の小さい市場に参入する
・大企業が模倣したら自分の首を絞めるような事業を行う(バイト掲載サイトのジョブセンス(現マッハバイト)がいい例)。ちなみに「合成の誤謬(fallacy of composition)」と言う。
・大企業が参入後追いつけないくらいのスピード感を持って事業を進める
である。
これはイノベーションのジレンマからの考察であり、その通りだと思う。
先日、某キー局で働く友達と話している時にAbema TVのことを聞いてみた。すると
「あーAbemaね、キー局と比べるとまだ全然規模もないし、」
「今の人は全然テレビみないと言っても、まだ全然大丈夫だよ」
「社内だとAbemaの話題が出たことすらない」
「それよりも他のキー局とのこと考えなきゃいけないし、自社コンテンツのことでいっぱいいっぱい」
と言っていた。あっこれイノベーションのジレンマじゃん…って思った。
電子書籍もそうだし、スマホもそう。多分馬が最高の交通手段だった時に生まれた自動車もそう。みんな最初は理解されなかった。
合成の誤謬が意味するところは、「パーツで見たら非合理だけど、全体で見たらなぜか合理的」である。パーツしか見ない人にとっては非合理でそんなの成功するとは思えない。だけどビジネスモデルを全体像で見たり、社会・テクノロジーの変化を「点」ではなく「線」で見た時に初めてその非合理さに意味を見出せる。
これは持論だけど、新しいテクノロジーやそれを用いたサービスが生まれ、多くの「普通の人」が反対するようなものにこそ「賭け」たほうがいい。特に既存業界にどっぷり浸かった人から見たら、既存の慣習に囚われているので無意識的に拒絶反応を起こす。(恐らく自分でそれを認めるのが嫌だという深層心理がある)
普通の人も合成の誤謬を考慮していない。あれっ?と思ったら全体像や社会・テクノロジーの推移をよく観察する。
世界で初めて自動車を大量生産したヘンリーフォードは言った。
「もし顧客に、彼らの望むものを聞いていたら、彼らは『もっと速い馬が欲しい』と答えていただろう。」
馬は手段である。インサイトを観察し、顧客が求めるものを既存の考えに縛られずに作らなければいけない。
参考文献
クレイトン・クリステンセン (著), 玉田 俊平太 (監修), 伊豆原 弓 (翻訳)(2001)『イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき 』翔泳社
おぐら
思えば遠くへ来たもんだ
昔言われたことで、たまに思い出す言葉がある。
「まみ(わたしの名前です)って、すげー普通じゃん。でも、普通じゃない環境で普通でいるのって、いちばん普通じゃないよな」
って。
率直に言えば、言われて悪い気はしなかった。そのときのわたしは、沖縄のゲストハウスで暮らしながら、広告代理店勤務をしていた。昼は慣れない仕事を頑張…れていたかは定かじゃないけれど、まあ人並みには働いて、仕事がない夜はおもしろそうなゲストが来れば一緒にお酒を飲んだり、そうじゃなければ自分のベッドに引きこもってネットを見るような生活を送っていた。
「こう言っては何ですが、すごい暮らしをされているのに、見た目はきちんとしていますよね」
目上の方に、そう言っていただいたこともある。これもまったく悪い気はしなかったし、むしろ安心した。そのときのわたしはフリーライターで、沖縄から岡山へ引っ越す途中に気が変わって、札幌のゲストハウスに転がり込んでいた。
岩手で生まれて、22歳くらいで金沢に行って、それから、埼玉、沖縄、札幌、また沖縄、そして岡山にやって来た。今数えたら、人生で13回、引っ越しをしていた。仕事も何度も変わった。社員として働いたのは3社だけだが、バイト程度のものも含めれば数え切れない。バーで働いたり、工場に派遣されたり、ウグイス嬢をしたり、道に座って物を売ったりした。お金があるときもあれば、ないときもあった。家は、ないときのほうが多い。もうずっと、わたしの荷物は本と服と器しかない。それさえあれば、わたしはちゃんとできるらしい。
ここ数年は持ち物も増えたし、いる場所も落ち着いている。でもそれは以前と比較したらという程度のことで、たとえば、
「2週間くらい、いなくなることにしたよ」
「どこ行くの?」
「ないしょ」
みたいなやり取りだけで、突発的に家出してしまったりもする(そのときは結局2ヶ月帰ってこなかった。その間に渡邊と出会った)。
「志望校はここにした」
「部屋を借りたから家を出るね」
「今は沖縄にいる」
「家をシェアハウスにしたよ」
わたしの行動はすべて事後報告だし、必要を感じなければ報告もしない。相談するときは大概すでに心の内は決まっていると何かで読んだし、実際そう思う。であれば相談は無駄だし、わたしは無駄が嫌いなのだ。
わたしが多数派ではないことはわかっているけれど、俯瞰すれば、言うほど珍しい人というわけではないこともわかっている。世の中、変わった人はたくさんいる。奢られるだけで生きてる人とか。ピンキリで言えば、たぶんわたしは中の中。
客観的に自分を見れるようでありたい。否定せず見守ってくれる周りの理解にも目を向けたい。それができる限り、どんなに普通じゃない環境に身を置いても、わたしはちゃんとしていられると思う。
もうじき33歳になる。自分語りの散文で恐縮だが、節目において感じたことをそのまま書いた。
かわむら
居場所がない
ある日を境に今まで交流があった人に避けられるようになってしまったり、好きな店やゲストハウスに出入りできなくなってしまったりするのは、すべてわたしに要因がある。
いろんなところに行けば行くほど見聞が広くなり、新たな価値観が作られていく。人は根っこの性格というのは変えられなくて、ただ、価値観を変えることはできるのだそうだ。そうやって広く浅く作られた価値観は、なかなか狭く深いコミュニティにはハマりにくくて、わたしはどうにも居心地の悪さを感じてしまう。
その結果、たとえば、ていねいな暮らし界隈へ行ってしまうと
(あ、意識高い系ね)
って思われちゃうし、スタートアップ界隈へ行けば行ったで
(こういう女いるよね)
って思われる。たぶん。
まあ、こちらはこちらで、ていねいな暮らし界隈に行ったら
(ブランディングが弱いな)
とか思うし、スタートアップ界隈に行けば
(なんでこんなに理屈っぽいんだろ)
などと思ったりするので、お互い様なのだけど。
ほんの少し、波長が合わない。でも、わたしは人当たりがそう悪くないので、その少しの歪みを修正できないまま、その場を取り繕ってしまう。その繕いも、所詮その場を切り抜けられる程度のものなので、わたしが仲良くなりたいような人たちにはすぐに見抜かれてしまうし、見抜けないような人たちの中にいるのはわたしが疲れる。
ガチのコミュ障からすればわたしなんかはたぶんキラキラしすぎなんだろうし、でも、インスタ上位階級のおしゃれインフルエンサーたちからすれば、わたしの存在は垢抜けない。
フリーライターと名乗れば、かっこいいと言われることもあるけれど、名の知れたクリエイターからすればわたしなどは有象無象に過ぎない。
旅っていいよね! 的な人たちとはウマが合わないけれど、わたしの行動パターンは旅っていいよね系そのものなので、相反する人たちには受け入れられない。
そんなこんなで、心地いいなぁと思える居場所がない。心地いいなぁと思える場所は、わたしのことを好きではない。
仕方ない。慣れた。こういったことを考えるのは、別にわたしだけではないだろうし。積極的に変わろうとも思っていないので、話はここで終わる。こんなわたしにも、少しだけどちゃんと話せる友人はいるので、彼らを大切にしたいと思う。
でも、群衆の中にいるとき、だいたいわたしは、悲しい。
かわむら